KurashiHistory

時空で語る新世界の魅力(奇跡を感じる新世界とは)

トータルビューティアドバイザー「穂波みさ」さんのお仕事のこだわりとは?


奈良市内でトータルヒーリングサロン「neige felicite(ネージュ フェリシテ)」を主宰されながら、モデルや美容家として活動されている穂波みさ(ほなみ みさ)さん。

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前回の記事では主にデザイナーとしてのこだわりについてインタビューしてきました。

この記事では現在のエステや、モデルのお仕事にも焦点を当てながらお仕事のこだわりについてより深掘りして質問していきます。

Q デザイナーやエステなどで共通しているこだわりはありますか?

 

ファブリック・コンテンツ。

(素材の中身)

素材の中身を通じて、綺麗になってもらいたい。

 

素材とは、生地も、カラダも、お肌も、食材も、すべて素材なんです。

そして、そのバランスを大事にする。

 

自分が独立してから、今までこのコンセプトは共通しているかもしれないです。

 


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表現したいっていう原動力に、それにも繋がってると思います。

でも、それを、全てを仕事に絶対するぞってわけではないんです。

 

女性や恋愛や結婚で生活スタイルも変わっていく。

それに合わせて仕事だけをしていたらいいわけじゃなく、女性にとっての幸せって変わっていく。

 

そうやって追求していったらまた新しい原動力になるような人とか、ひらめきとかね。

何か努力して、開けていってるなみたいな感覚はあります。

 

インスタグラムとかでも自己満足みたいな感じで表現するのは好きなんです。

レイアウトしたり、世界がもっとシャープに見えるのか。

 


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www.instagram.com

 

数秒だけの動画も作ったりします。

www.instagram.com

 

自分を表現することももちろんなんですが、

 

「人に美しくなって欲しい。」

 

って思いが強いかもしれないです。

 

ファッションデザイナーやっている時は、着る人が美しく、かっこよくなってもらいたい。

 

エステ美容家として活動している時は、お客さんが内面や肌も美しくなって欲しい。

 



Q ずっと本気でやっていたファッションデザイナーから、エステに転向されたときの思いは?

企業デザイナーもやってたけど、どちらかというと独立期間の方が長かったです。

独立している時は、何か良い生地が見つかるタイミングがあるかどうかで結構仕事が左右されてました。 それに、気分のモチベーションも影響がありましたね。
落ち込んでたら仕事にならないとかよくありました。
あとは、やっぱりお金の都合に振り回されたりとかなり大変でした。 若いときは何とか頑張ってきたけど、女性の場合はずっとクマとかあったらダメじゃないですか。
それなりにそのインディーズ時代ときは、そんな自分のブランド化のセレクトショップにとか
もう勢いに乗ってたので調子に乗って、広げてしまいました。

でも、広げてしまうとお仕事としてそれに応えないといけないので、どんどん忙しくなって追い込まれて行きました。
クライアントから
「次のテーマは?」 って言われたら、ショーを作り込んでるからなかなかすぐにできないけど、それでも捻り出して頑張っていました。 そんなふうにみんなたくさんいたんですけど、結局 みんなデザイナーが潰れていった時代なんですよ。。。 もちろん、成功されている方もいるし、多くの人が借金まみれになって潰れていきましたよ。 だから、今でも、第一線でされている高橋さんは本当に尊敬しています。

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Q 実際に、崩壊して続けられなくなった時はどんな気持ちでしたか? 本当にバランスが崩れたんですよ。
経済と精神のバランスが崩れた時に、続けられなくなってしまいました。 クリエイターとして何かを生み出すことができなくなったりした。 今は、その自分のマイナス面を認めてやっていくことになった。 人間性についても年齢を重ねていくと正直にやっていった方がいいと思う。 自然体でいた方が、メンタルにも優しいし。

「人間らしさも魅力」と思ってお仕事するようにしています。 完璧すぎるものより、人間らしい方がいいって求められる場合もあるので、 今は、無理せずに自然体で発信しています。 かっこつけずに、今は、バランスを大事にしています。

エステのお仕事では、お客様のメンタルや気持ちに寄り添った施術ができるように心がけています。

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Q 高橋さんのファッションショーなどお手伝いされていると聞きましたが、髙橋さんのデザインで好きな部分は?


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私は、デザイナーとして表現するときにシャープさの中にも、女性らしい「柔らかさ」を表現することが多かったです。 髙橋さんのファッションは、モードの黒や白で、「伝統と革新」というテーマでデザインされています。 自分が髙橋さんのような世界観の表現は、自分でもやりたかったけど、やりきれなかったという部分もあるかもしれないです。 私達の時代は、モードの世界観でやり切っている人はたくさんいました。 でも、みんな続かなくてやっていない。 私も続かなかったうちの一人です。
高橋さんのデザインとの出会いは、韓国のファッションショーでした。 今の時代でもそれをずっとやっている。 内面は古風だけど、飛んでる表現もある。

単純にかっこいいですよね。


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自分がやりたくて、やりきれなかったことを応援したい。
自分がもう一度、それをそれを表現しようと思ったら、体力的なところも無理。 Q やっぱりファッションショーって命がけ何ですか? 生きるか、死ぬか。 みんなが、ランチ行って、旅行行ったりしているときに、全てを仕事と服にかける。 命がけでやるのはもう体力がもたない。 今やれって言われたら、「無理ですね」(笑)。 でも、それを今でもやり続けている高橋さんは応援したいですね。
 



<感想>
インタビューを通じて、ずっと出てきたのはバランスという言葉でした。

デザインのバランス。
素材のバランス。
体のバランス。
メンタルのバランス。
モデルとしてのバランス。

いろんなイメージを表現されてこようとした時に、
バランスが整っている時が自然体で表現がよりできているという話でした。

「自然体でいた方が人間らしさが出る。」

これは、新世界の魅力と伝わるものがあります。

新世界のデザイナーである高橋さんとの共通点は、「自然体の人間らしさ」なのかもしれません。
 

新世界でモデルにデザイナー!?異色の経歴を持つ「穂波みさ」さんにインタビュー


奈良市内でトータルヒーリングサロン「neige felicite(ネージュ フェリシテ)」を主宰されながら、モデルや美容家として活動されている穂波みさ(ほなみ みさ)さん。

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元々ファッションデザイナーであり、ご自身のブランドも立ち上げられた方です。「大阪コレクション」や「神戸デザイナーコンポーズド」等に出展し、若手のデザイナーとして注目を集められていました。 呉服屋の家系に生まれ、ジバンシィのデザイナーだった母、アパレルの品質管理士だった父に育てられる。今は亡き叔母は、雑誌で活躍するモデルだったそうです。

それでは、そんなファッション業界の申し子のような家庭で生まれ育った「穂波みさ」さんについてインタビューして参ります。


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<穂波みさ (本名:米澤 美佐)さんの略歴>

1999年、フリーデザイナーとして独立。
「FABRIC CONTENTS」設立。オリジナルブランド-Misa Yonezawa-展開。

「大阪コレクション」「福岡アジアコレクション」「New commer Collection」出展。

大手商社&アパレルメーカーとデザイン企画契約。
(※PINK HOUSE、Baby PINK HOUSE、(株)セシールダナキャランニューヨーク他)

TV・雑誌・新聞など多数取材掲載。
(NHK他、SAVVY、装苑、SPRING.MOMO、WWD JAPAN、読売新聞、繊研新聞、他) 。

Q デザイナーになったきっかけは?

17歳の時に、自分が恋愛で色々あって、「死にたい」て思った時がありました。

その時に、手に職をつけて、自分にプライドを持って、一人で生きていける自分の好きな仕事を持ちたいって思った。

私も、最初は、とても繊細だったんですけど、ちょっとずつ、逞しくなって芯のようなものを作ってきたような気がします。



Q デザインを勉強する時に大事にしていたことは?

私は、パターンメイキングや、数字が弱くてイメージから入るタイプでした。

だから、好きなブランドの服を、買っていろいろ構造を見るために、分解したりしてました。
モード系のデザインの服もすごい好きだったので
コムデギャルソンの服を分解してみたりして、どういう構造になるのかを学んでました。

それが、自分にとっての「デザインの教科書」でした。


母もジバンシィのデザイナーで、オートクチュールで作ったりしていたのでこだわりはとても強かったみたいです。 今でも、服や着物のことについてはうるさいですね。(笑)

母は、呉服屋として古風なものとかを大切にしていたので、私がモードでイメージで制作したりするのでよく怒られてました。 そういう家庭の環境の中で教えられてきたような気はしますね。

実家は、石膏でミロのヴィーナスがあるのが普通の環境でした。

子供のころから、アートやデザインってものが身近にあったのが今に生きているのかもしれないです。


Q デザイナーとしてのこだわりは?


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自分の生活の環境の中でパッと閃いたり、直感で降りてきたりする。 今は、昔みたいにデザイナーとしてショーなどを開催しているわけではありません。 でも、モデルや、美容家として活動していく中で いまだに映像や音や空間のイメージなど新しいものが降りてきたりする。 そういった直感やイメージが元になって、それをどう表現するのかを意識しています。 Q  デザイナーとして立ち上げたご自身の会社「ファブリック・コンテンツ」ですがこの名前にはどのような思いが込められているのでしょうか?


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ブランドは、自分の名前を入れたのですが。 名前の由来は、 ファブリック(素材)・コンテンツ(中身、内容) 料理でも、噛めば噛むほど味が出る。 テーマは、コントランス的な表情を着崩したバランス感です。
アバンギャルドのようなものや、ほっとした癒しになるものそのような違ったテイストをどうバランスを取るのかを大切にしていました。 エステでは、癒しを与えるものと、 モデルでは、活動的なもの。
画像で言えば、インスタでも、ここの構成で切ればおしゃれになる。 でも、人が立ってたら野暮ったくなる。 どう見せたらかっこよくなるのか。 そう言う、バランス感は自信があります。

 

Q 自分のイメージを上手く表現できた一枚はありますか?

 

外での風景をうまく使って、TERUAKI TAKAHASHIさんとのブランドの近未来的なイメージの良さを違った側面から表現したいと思って撮影した画像です。これは上手く撮れてたと思います。

 

www.instagram.com

 自分を軸に表現できているときとできていない時があります。

ファッションショーでモデルを選ぶ時は、イメージに合う、合わないすごいうるさいことを言ってた。

美人なだけじゃなくて、アートっぽい雰囲気を持った女性がなど。 自分がいざモデルの立場に立ってみるとこんな難しいことをみんなやってくれてた。 頭の中でイメージは出てくる。 いざ、自分がやってみると、 足の長さが足りないなど、いろんな欠陥だらけでした。 それぞれの気持ちがわかったりするので今は、トータル的に表現する時は考えています。 クリエイターとして、エステ美容家として、モデルとして活動したことを生かしてサポートをすることが多いのかもしれません。

通天閣 エレベーターガールから見た通天閣の思い出

通天閣エレベーターガールとして、設立当初から働かれて、通天閣の再建を間近で見られた経験を踏まえて、雑野さんのお母さんにもインタビューさせていただきました。


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(雑野さん)

Q 雑野さんのお母さんが、エレベーターガールをされたという話でしたが、どういうきっかけでお仕事されることになったのでしょうか?  

 

きっかけは、うちの親父と交際していたからです。

募集するときに、うちのおじいさんからすると息子の交際相手だし、というのがきっかけだったそうです。

 

Q エレベーターガールとしてお仕事をされていたときは、どういったお気持ちだったのでしょうか?

 

地元に通天閣のような高い建物ができて、そこで仕事をすることを誇りに感じていたし、楽しかったそうです。

それこそ来塔者はかなりすごい人数だったようです。


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当時、円形エレベーターも初めてだったので、そういう意味でも注目されていました。

どこにでもあるような塔ではなくて、初めて尽くしのような塔で働くのも嬉しかったみたいですね。

 

本人からすると、たまたま、社長の息子と交際していたときっかけで始めた仕事です。

なので、図らずもやり始めたエレベーターガールですが、本当に誇りを持って働いていたそうです。

 

(ここから雑野さんのお母様にインタビュー)

Q エレベーガールとして働かれている時は、どういう気持ちだったのでしょうか?

 

通天閣ができて一番最初だったので、張り切っている感じがありました。

最初だから、粗相のないようにという緊張もあったように思います。

何もないところにできたので、誇りに思っている部分もありました。


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(今でも色んな人に愛される通天閣)

Q 当時の通天閣はどのような様子だったんでしょうか?

 

その当時は、できてすぐだったので人が並んで整理をしなきゃいけないくらいでした。

 

Q おじいさんはどのような方だったのでしょうか?

 

おじいちゃん(義父)達が、通天閣を建ててくれなかったら今の新世界は無いと思います。

 

本当に立派な方やなと思います。

 

普通の人にもかかわらず、通天閣のような大きな建物を建てられたことは本当に凄いと思います。



Q その当時、おじいさんが語っておられたことは?

 

普通の人が通天閣を建てるような立派なことをする、そら苦労するやろうな。

エレベーターガールが必要ですってことで一番初めの時から働かせてもらいました。

 

あのおじいちゃんは地域の中でも役所に行くとしても、すごかったです。

 

顔が聞くと言うのは変な言い方ですが、区役所や警察とかいろんなところに行ったりと、

人の世話をあそこまでできる人はいないです。

 

今、90歳で、25歳から65年間新世界にいますが、あそこまでの方はなかなか見たことないです。

 

この子(雑野さん)は、おじいちゃんの血を引いてるなと思います。

 

保護司や民生委員をしているのを見ると、おじいちゃんと血が繋がっているんだなと感じます。


●インタビューの感想


雑野さんから見たおじいさんと、お母さんから見たおじいさんは同じ話なのですが、当時を直接感じた人にしか話せないものが伝わってきました。

 

今の新世界があるのも、2代目通天閣の設立を命がけでしてくださった雑野さんのおじいさんや、当時の尽力された人のおかげなんだということを伝えるとみなさん驚かれます。

 

通天閣があることのありがたみをヒシヒシと感じることができ、このような機会をいただけたことに感謝しかありません。

【伝説のはじまり】ついに実現!?新世界のファションショー


皆さん、伝説のはじまりです。

ついに、「新世界」で「ファションショー」が実現します。


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追記 2023年11月23日

動画を公開!

今回の町おこしの趣旨を近藤会長、高橋さんに語っていただきました!

youtu.be

 

実はこの企画は、今までの新世界の街で

 

「積み重なった想い」が実現した

本当に感動的な企画。

 

今の新世界町会連合会 会長の近藤会長と、世界的なデザイナーである、なにわ小町の高橋さんが、何年もからずっとやりたいと話していた企画なんです。


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(新世界の街での街歩きファションショーについて打ち合わせするお二人)

 

二人とも忙しい人なので、企画が立ち上がるるもののなかなか実現しませんでした。

スケジュールの都合が合わず何度も流れてきていたのです。

 

「昔、お世話になった新世界の近藤さんに恩返しをしたいんです」

(近藤会長が、新世界町会連合会の会長になる10年以上前から2人は色んな町おこしをしています)

 

と高橋さんは、いつも熱く語っていました。


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(高橋さんの町おこしへの想い

詳細はこちら⬇

https://kurashi-net.hatenablog.com/entry/2023/06/11/233309)

 

「なにわ小町の高橋くんはけっこう凄いやつなんや。

女の子が気軽に来れるオシャレな街にするなら高橋くんとファションショーとかやりたいな。」

(高橋輝明さんは関西コレクションのデザイナーとしても活躍中、今では韓国でも新たなブランドを立ちあげる世界的なデザイナーです。)

https://www.instagram.com/reel/Cz0maajp0fn/?igshid=ZDBjMWI0ZjMxOQ==

 

近藤会長もよく高橋さんの話をするときにはファションショーについて語られていました。


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けれど、お互い忙しい相手に配慮してしまい、いつも打ち合わせだけで実現しませんでした。

 

今年だけでも、2回もリスケ。

 

しかし、2023年11月19日。

そんな2人の「想い」がついに実現。

 

新世界の街歩きファションショーのオーディション。


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新世界会館で開催されました。

応募されたのは、プロのモデルの方ばかり。


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通常のオーディションと違い新世界への熱い思いを語る参加者のモデルのみなさん。

 

西成に住んだことがあります!


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広島から今日のためだけにきました!


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など、パンチのある自己紹介ばかり。

 

今回は、通常のモデルオーディションと全く違いました。

 

参加者全員、「新世界の街の良さ」をファションでいかに知ってもらうか討論会くらいの盛り上がり。


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そして、

 

「高橋さんのファションに憧れています!

もう一度、モデルとして、高橋さんのデザインした服を着たいです!」

 

と、過去に高橋さんのデザインした服を着たことがあり、

「TERUAKI TAKAHASHI」へのリスペクトに溢れるモデルの方もいらっしゃいました。

 

 

新世界をオシャレな街にする町おこし

 

新世界街歩きファションショー

 

初日からとても充実した1日でした!


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これから、本ブログでも追跡取材していきます!

 

動画やプロのカメラマンが撮影してくれた写真など。

 

新世界をオシャレな街にする。

 

面白すぎる町おこし。

 

あなたも一緒に、

新世界をオシャレな街にする

この町おこし、是非、参加してください!

 

続編、こうご期待!!

 

追記 2023年11月20日

早速、近藤会長がご自身のブログで熱い思いを語ってくださいました!

新世界街歩きファッションショー☆オーディションを開催しました! https://ameblo.jp/shinsekaizyoho/entry-12829339065.html

是非、読んでください!

 

 

近藤会長のインスタは、こちら⬇

https://instagram.com/shinsekaizyoho?igshid=M2RkZGJiMzhjOQ==

 

高橋さんさんインスタはこちら⬇

https://instagram.com/teruaki.takahashi?igshid=M2RkZGJiMzhjOQ==

 

雑野さんが感じる新世界の魅力とは

新世界の町おこしの原点である通天閣について詳しく取材してきました。

 

その通天閣をきっかけに今まで発展してきた街を見守ってきた雑野さんから見た新世界の魅力について インタビュー。

 

Q 新世界の街が魅力的なのはなぜ?


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地理的な部分と、街に来る人の多様性もあるのかなと。

 

地理的にも、新世界は、悪い意味でもなくちょうど道路で隔離されている。

〇〇自治区ではないですが 笑。

 

そこだけ、別のエリアになって独自の発展をしてきた。


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それに、うちのお店の近くにも新世界花月があって芸人さんが一番最初に踏む舞台がありしました。

新世界は、芸人さんもたくさんいたり、舞台が花形であったり、映画館があったりいろんな人がいろんな形で商売してきた多様さも特徴的です。


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Q 新世界が他の街と違う魅力と言えば?

 

やっぱり他の繁華街と違うところは、新世界は地の人(ジのヒト)というか、住んで商売をしているところですかね。

昭和の匂いを残しながら、そんなにかしこまらずに普段着のまま来れるような商業地なのかなと。


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ミナミやキタって、ちょっと構えて服も整えてという感じがあるが、

割と普段着で、フランクに来れるのが街自体にそういう雰囲気がある。

 

100年以上の歴史の中で街自体が持っている雰囲気がある。

 

そういうものってそんなすぐに醸し出せるものではないので、百年以上の歴史の中で、街自体が作り出してきた雰囲気だと思います。

そういうものが一つの魅力に繋がってるのかな。


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新世界は、昭和レトロという言われ方をします。

マイナーチェンジはしていますが、最新の街とは違う街の雰囲気がいまだに残ってます。他の地区の商店街とは違う雰囲気ですよね。


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Q 観光地として注目されることについては、どう思いますか?

 

新世界は、元々商業地です。

でも、今はどちらかというと観光地という側面が強くなっている。

どうしても通天閣バックの写真を取り上げられることが多いですね。


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外国人の方もいらっしゃいますし、女の子だけでも、立ち飲み屋に入れるような時代です。

でも、いまだに、中川家が珍しいおっちゃんが居てるところとして、新世界をテレビで取り上げるような部分もある。


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見た目だけで見ても、人種のるつぼのようなところがある。

ぜひ、いろんな人に新世界に来てもらいたいですね。

 

<インタビューの感想>

雑野さんの語る新世界の魅力は、新世界の人の多様性だと感じました。

 

実際に新世界には、面白い人。

魅力的な人しかいません。

 

フラッと寄った立ち飲み屋で横にいる人と話してみれば、みんな個性的で面白い人ばかりです。

 

「芸人、役者、料理人、タバコ店、デザイナーに、喫茶店、数えきれない多種多様なお店。いろんな人がいて、遊びに来やすい街の雰囲気」

 

新世界には「面白さ」が満載!!

 

一度、ぜひ新世界に来てみてください。

新世界 通天閣の再建秘話 命がけの再建(ご家族から見た通天閣再建の思い)

ジャンジャン横丁にある洋品店の3代目、雑野裕史(ざつの・ひろふみ)さんに通天閣の再建秘話を教えていただきました。


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Q おじいさんが、通天閣を作られたと聞きましたが、戦後間もない当時に何故そこまでして通天閣の復興を目指したのでしょうか?


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(現在の通天閣)

 

「思い」としては、

通天閣の再建無くして、新世界の復興なし」。

 

<再建中の通天閣

 

うちのおじいさんからしたら、初代の通天閣っていうのは直接見てきた。

 

【雑野さんの祖父は通天閣再建の発起人の一人で、運営する通天閣観光の初代社長、雑野貞二さん。雑野さんの祖母や両親から当時の話を聞きながら育ったそうです。】

 

戦後、新世界は少しずつ復興をしてはいました。

そのなかで新世界のシンボルというよりも大阪のシンボルとして、新世界自体が復興というのは通天閣の再建なくして新世界の復興はないっていうような思いに駆られていた。

 

皆さんもそういう思いを持っていたと思います。

実際に作ろうという話が地元で上がってきて、昭和28年(1953年)ぐらいに設立準備委員会を立ち上げて発起人代表になり、実際に再建に向かって走り出だしたんです。

 

 

Q 通天閣の再建が戦後、すぐだといろんなものが足りなくて大変だったのではないでしょうか?

 

発足した当時は、一度、戦争で新世界の街も焼け野原になってしまった後でした。

 

その上、当時タワーの設計は、早稲田大学の教授の内藤多仲という人しかできなかった。

だから、東京までお願いに行ったり、名古屋のテレビ塔を視察に行ったりした。

東京タワー、通天閣、名古屋のテレビ塔のフォルムが似ているのは内藤教授が設計したからなんですよ。

 

でも、東京に頼みに行くとなったとしても、今みたいに、のぞみで2時間半とかじゃなく、1日がかりだったでしょう。

 

それも何度か足を運んだそうです。

 

しかも、最初は、「用地として狭すぎる」ということで、断られた。

 

その後、用地の部分を大阪市と話をして今の通天閣の再建が決まった。

 

 

Q 民間の力で新しい大きな塔を建てると言うのは、協力者の人を募るは大変そうなイメージがありますが、実際どうだったのでしょうか?

 

周りからは、「そんなもんできへんで。」とか、「そんなもんできたら、うどんで首吊ったるわ」

とか言われるような人も居たそうです。

当然、資金集めも大変だったと思います。

普通の人には「できっこないだろう」と思われたと思います。

 

<発起人の人を含む会合>

 

 

 

Q そこまで言われても、実際に建設に踏み切ることができたのは何故だと思いますか?

 

世代間のギャップもあるんでしょうけども、明治時代の人は、我々の世代と比べると肚(はら)の座り方が違うというか、人間的に、違う異次元のものを持ってるなっていう気はしますね。

 

明治時代の人は、「命のかけ方」に対して違うものがあると思います。

 

僕らは、命をかけるといっても漠然としかしません。

でも、当時の人は、実際に戦争も経験してるでしょうし。

肚(はら)の座り方とか実際何か事業をするときの命のかけ方とか、覚悟というものが全然違うかなと思いますよね。

 

当時の人っていうと、明治後期とはいえまだ町の中に「ちょんまげ」の人もいたかもわかりませんし、

帯刀してた人もいてたかもわかりません。

 

もっと命に対する感じ方が身近っていうか、命がけの意味が我々の感覚と違う。

もしこれができなければ、長柄の人柱になるつもりやと、お爺さんがコメントしているという新聞の記事も読んだことがあるんですが、ほんまにその気やったん違うかなって思いました。

 

口先だけじゃなくって、「ほんまに命かけるんやで」って感じだと思います。

 

私のおばあさん、通天閣を再建したお爺さんの奥さんに当たる人に話を聞いたことがありますが、

「血尿を出したよ」っていうのは聞いたことあります。

 

おじいさんが履いていたステテコが真っ赤になったそうです。

 

なかなか、本で読んだりとか漫画とかで、血のションベンを出すとかっていうのを聞くことありますけど実際にそういうことあるんやなっていうのは、思いました。

 

 

Q そんな状況になっても諦めずにやり切られたのは本当にすごいですね?


さっきの話では無いですけど、やるっと決まったらやるんでしょうね。

 

通天閣の竣工式>

 

 

Q 雑野さんのお爺さんは新世界の会長もされたというお話を聞きましたが。

 

連合会会長を2期(4年間)就任されたみたいです。

その新世界連合会会長の就任時に通天閣の再建の話があった。

 

お爺さんの見ていた時は、昔の通天閣はロープウェイになっていました。

それを模して美術館を買い上げてホテルに改装して、通天閣とつないでやるだけやったら、市に寄贈するという構想もあったみたいです。

 

我々とは、発想というか比較できないようなスケールを感じますね。


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<感想>

新世界、最大の町おこしは「通天閣」でした。

 

新世界の町おこしを中心に取材してきましたが、どんな状況になっても新世界は、街の皆さんの力で盛り上がってきました。

 

一体、このパワーはどこから来るのか?

 

今回のインタビューでは、新世界の町おこしの力強さの原動力の秘密を知った気がします。

 

新世界の中心にあるのはやっぱり通天閣

 

その通天閣は、街の皆さまが

 

民間の力で命をかけて作ってきた。

 

奇跡的な街なんだということを改めて感じました。

 

雑野商店 新世界でのご商売と街おこしについてインタビュー

新世界でのご商売と町おこしについてインタビュー

 

新世界で用品雑貨のお店を営む雑野商店店主の雑野さんにインタビューいたしました。

実は、雑野さんは一つのインタビューでは語り尽くせないくらいの新世界の街おこしに深く関わっていらっしゃいます。

 

インタビューは、雑野さんのご商売から2代目の通天閣の誕生秘話まで盛りだくさんの全4回です!

 

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1, 新世界でのご商売と街おこしについてインタビュー

2, 新世界 通天閣の再建秘話 命がけの再建(ご家族から見た通天閣再建の思い)

3, 通天閣 エレベーターガール おばあさんから見た通天閣の思い出

4, 雑野さんが感じる新世界の魅力とは

 

それでは、まずは、

新世界でのご商売と街おこしについてインタビューしていきます!


Q お店はどのようなご商売でしょうか?


お店は用品雑貨のお店です。

昔は、子供もたくさんいた時は、こども服を取り扱っていたり

紳士肌着や、鞄なども取り扱っています。


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Q いつから新世界でご商売されていますか?


私は、3代目で祖父の代から商売しているので、雑野商店自体は戦後すぐに商売を開始しています。

まだ、新世界に店が全部入っていないような状態からスタートしたとは聞いています。


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私が、今年58歳の年で、1965年生まれなので、まだ、うちのお店ができた時は生まれてないし、当時は新世界も街の道自体もアスファルトになってない時から、雑野商店は、スタートしています。

 

当時は、戦後なので、着るものも既製品ではなく、今でいう古着のようなものを取り扱うことが多かったようです。

 


Q 雑野さんご自身が、本格的に新世界でご商売を始められたのはいつからですか?


2005年ごろだと思います。

40歳くらいの時に、用品雑貨の今の仕事を専業でやるようになりました。

 

私は、一時期、二足の草鞋(ワラジ)でした。

仕事から帰ってから、店を手伝うような形で、15年くらいやっていました。

二足の草鞋の時は、土日は、商店街で、平日は会社でという形だったのでオフの日はほとんど無いような日が続きました。


勤め先は狙ったわけではないのですが、繊維会社に勤めていました。

当時一番有名だったのは、カールルイスの靴の中に使われていたアラミド繊維なども取り扱っていました。


僕24歳で結婚したんですが、その年に父が亡くなりそれからお店を手伝いだしました。

 

その時期というのは、その前年におばあちゃんも亡くなって、私の周りに色々変化があってぎゅっと濃縮した年でした。


その後、40歳の時にいろんな転機が重なって店一本で専念する形になりました。

当然、父が亡くなった後、地域のいろんな役職を引き継いで担当することになりました。

 

役職を担当されている方はほとんど親父の同級生や、その前後の人が多かったんです。

私は、20代からいろんな役職を担当することになったので、役職歴は結構長いです。

今は、新世界連合振興町会副会長など、街に直接的に関わるものから浪速地区の保護司や恵美地区の民生委員なども担当しています。

 

※:保護司とは、ボランティアで非常勤国家公務員です。犯罪者の社会復帰を手助けし、住居や仕事の手配などを行います。日本には約47,000人がいます。

 

 

 

 

 

Q じゃんじゃん横丁(じゃんじゃん町)では、町おこしが沢山ありましたが、そのなかで印象に残っているものは?


当時の若手のメンバーで、新世代のメンバーで集まっていたのですが、印象に残っているのは、

誓いの鍵や、ジャンナリエですね。

新世代として集まろうという流れで、町おこしに参加するようになりました。

 



Q 町おこしをされている時はどのようなお気持ちでしたか?

 

昔は、新世界は、人の波がたくさんあって、まっすぐ歩けないくらいの時から比べると、

人がどんどん減っていましたので、なんとかしようと思っていました。



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最初は大きな目標ではなく、若い人で何かできないかという形でした。

誓いの鍵も、どんどん埋まって行くのを見るとそれだけ反響はあったのかなと思いました。

日々、目に見えて、鍵が増えていくのが分かるので、来てくれてつけてくれているなぁって感じでした。


ジャンナリエも派手に見えますが、いきなり初年度からではなく、

一つずつ積み重ねて行ってできたんです。

まずは、写真展をやったりしました。


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毎年、少しずつ電飾もバージョンアップしていきました。

3年間くらい続けて、電飾は、冬の12月からバレンタイン前くらいまでは飾り付けは残していました。

 

(点灯前)

 

(点灯後)

<インタビューの感想>

この記事では語り尽くせないくらい雑野さんのお話は内容が濃かったです。

 

普通の人の2倍も3倍分の人生をかけてやるようなことをたくさんやられています。

 

でも、その雑野さんでさえ敵わないと言ってしまう。人がいます。

 

その人とは。

 

 

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