新世界のお洒落なリマリーカフェ 近藤宏紀さんに新世界の町おこしについてインタビュー
初めて新世界でインタビューさせていただいたブンガカフェ(リマリーカフェ)のデザインを一新され、レトロな町新世界で一際目立つお洒落なカフェを作り上げた近藤 宏紀さんにインタビューさせていただきました!
新世界の町の様子で変わったなと思う部分はありますか?
私は、今28歳ですが、
新世界の町で、ずっと生まれ育ちました。
まず、新世界は、
昔は串カツが名物じゃないんですよ。
串カツ自体はありましたが、
新世界=串カツというイメージではなかったんですよ。
あとは、自分もパチンコ屋とお好み焼き屋の息子として育ったし、何店舗もパチンコ屋さんがあって、
新世界は、パチンコ屋さんの街でした。
それが、突然串カツ屋が増えてきてまた。
2012年位からです。
パチンコ屋が閉まれば次、串カツ屋ができると形でどんどん増えていました。
Q 通天閣は、あまり人が居ない時期があるという話を聞いたことがあるのですが実際はどうだったでしょうか?
人が少なかった通天閣から、人が集まる観光地へ変わった印象です。
通天閣も最初、2000年前後の私が小学校のときはわざわざ遊びにいくほどじゃなかったです。
新世界の100周年記念あたりから、観光地になっていきました。
今ようやく、自分が観光地に住んでるっていう感覚はありますね。
変わったと感じたのは2013年くらいですかね。
Q新世界の町は、昔はガラが悪いと聞いたことがありますが、実際はいかがでしたか?
私の記憶では治安の悪い町というイメージはないです。
むしろ、大阪らしい町として誇りに思ってます。
おっちゃんも、お菓子くれるしという感じですね。
酔っ払いが小競り合いするのは、飲み屋街はどの町もそうですし。
新世界は、だんだん注目されてきたとは思います。
県民ショーのような
テレビでも絶対抜かれるし。
新世界は、大阪のイメージなんだと実感します。
Q 既に色々な町おこしをされていますが、町おこしを意識されたきっかけはありますか?
町おこしを意識し始めたはのはコロナ禍に、3年前(2000年)に通天閣を辞めてから本格的にブンガカフェ(リマリーカフェ)で働いてからです。
20歳位からバイトで、通天閣で働き、
仕事として、通天閣を盛り上げるために、外国語を覚えたり色々しました。
人脈ができたところは、あります。
いろんな芸人さんの友達になったり。
カフェでは、夜、スポーツバーしたら外国人の方がたくさんきてくれたり
DIYしたり一人で作ろうかなと言って、店の改装をしたりしてましたね。
2019年のコロナの始まってから、
そこで、ガチャガチャ始めましょうかって言ったり、
他のもちょっとゲームセンターしてみようかみたいな感じで。
YOUTUBEで、街の紹介をしたこともあります。
このときのことがきっかけでデザインの仕事とかもよくいただくようになって
看板やお店のレイアウトもデザインさせていただいてます。
Q 町おこしで、大事にしていることはありますか?
一言で言うと
「町おこしは、シャッターを上げろ」
って思ってます。
とりあえずシャッターを開けて、今できることを考えることが大事かと。
通天閣も、コロナ禍で人が少なくても、シャッターを開け続けたんですよ。
ガチャガチャ回して開けたら鍵が出るから自分で車ロッカー開けて持って帰るっていうシステムで、非接触なんでコロナ禍でもできることをやりました。
町おこしは、ほんまに効果があることは、
「継続性」だと思います。
だから、町おこしを店誘致したり、うちの前のお店とかも決まってたんですけど、オーナーさん困ってはって、ちょっとゲームセンターしましょうとか。色々やりました。
そういう継続的なものが大事かなって思います。
1日だけ、お金をかけて大きなイベントをやるよりも、それを毎日するんやったらめちゃめちゃ効果あると思うんですけど。
1日だけやってもしょうがない。
継続的にみんながお金稼いで、ちゃんとご飯食べられるからこそできることやと思う。
Q 今後について考えておられることはありますか?
コロナ禍でほんまに外国人に頼ってたのを思い知りました。
今後、新世界には日本人の人にもたくさん来て欲しいし、
街の魅力を知った人で、ここで商売したいっていう人が新世界の街のシャッターを開けてくれたら嬉しいなと思います。
<インタビューを終えて>
新世界に28年間、生まれて育ったからこそ感じる新世界のリアルをインタビューさせていただきました。
店のデザインなど、
新世界の中でも、独自の路線で勝負されていて、
近藤宏紀さんの
新しいものを発見し、
行動できる
独自の感性は本当に凄かったです。
新世界の会長であるお父さんと
全く違うタイプですが、
「優れるな異なれ」
という部分においては近しいものを感じました。